「高尾山薬王院有喜寺」は1200年の歴史を持つ関東随一の名刹です。
奈良時代に始まり、薬王院の通称と共に長きにわたって多くの信仰を集めてきました。
今回はそんな薬王院の歴史についてまとめました。
およそ1200年前の奈良時代、天然痘の流行により多くの人がなくなりました。
これは「天平の疫病大流行」と呼ばれ、朝廷をも揺るがす大事件でした。
この疫病の流行を鎮めるため、聖武天皇は仏の力を頼り、奈良の大仏の建立などの政策を行います。
その政策の一つとして、全国への国分寺の建立があります。
責任者であった大僧正・行基は日本全国に国分寺を建て、疫病を鎮めるために尽力しました。
奈良の平城京から遠く離れ、武蔵と呼ばれていた関東も例外ではなく、今も各所に国分寺や跡地が残っています。
高尾山薬王院も、もとは国分寺の一つとして744年に建立されました。
国分寺は、全国各地の国府の管轄下にありました。しかし時代が移ろうにつれて地方官吏の政治腐敗や度重なる飢饉により、国府は力を失っていきます。
それと共に国分寺を維持することが難しくなり、多くの寺が廃れてしまいました。
高尾山薬王院も例外ではなく、廃寺となってしまいます。
多くの国分寺は薬師如来を本尊として建立されました。
しかし、今の高尾山薬王院の本尊は飯縄大権現であるとされています。
なぜ本尊が薬師如来から飯縄大権現になったのでしょうか?
奈良時代の国分寺建立から600年の時が流れ、廃寺となった薬王院に一人の高僧が入山しました。
この頃は京に室町幕府が置かれ、公家から武家へ政治の主導が移り変わる時期でもあります。
1375年、京都醍醐山の高僧・俊源大徳は高尾山へ入山すると、八千枚の護摩木を焚く「護摩供養秘法」と呼ばれる修行を行います。
この修行の後、「飯縄大権現」を奉り、高尾山薬王院が新たに中興したのです。
このため、薬王院では飯縄大権現と共に薬師如来が奉られています。
室町時代末期になると力を得た武家が領地を巡って各地で戦乱が起きるようになります。
各地の大名は天下泰平を求めて戦へ繰り出し、それと共に仏教信仰が盛んになっていきます。
高尾山の飯縄大権現は不動明王の仮の姿とも言われており、戦国時代には戦勝の神として武将に信仰されました。
なかでも八王子の地を治めていた北条氏の信仰は篤く、薬師堂の修理資金としての寺領地を寄進したり、高尾山の霊場に戦乱の被害が及ばぬよう制札(戦による乱暴を禁じる立札)を出すなど外護に尽力しています。
この外護は、のちにこの地を治めた紀州徳川家にも引き継がれ、江戸幕府によりおよそ200年にわたって山林の保護や植林が行われました。
明治時代になると高尾山は国有林として指定されます。以来、今日まで高尾山の霊場は人々によって守られ続けているのです。
施設名 | 高尾山薬王院 |
---|---|
住所 | 〒193-8686 東京都八王子市高尾町2177 |
TEL | 042-661-1115 |
公式サイト | https://www.takaosan.or.jp/ |
アクセス | ケーブルカー高尾山駅より徒歩約20分 |
※最新の情報は公式サイトをご確認ください。